roseに口づけを

愛島セシルに愛を捧ぐウェブログ

恋の続きはデスティニー

百年過ぎ去っても醒めない恋を紡ぎませんか?

というのは、愛島セシルのオーディションソング DESTINY SONG の歌詞です。
この歌はゲーム中では「お別れする恋人に残していく愛の歌」ですが、歌詞だけに注目してみるとまた少し違う感想になります。

セシルは「何度生まれ変わっても再会して恋をする」という内容の歌をよく歌う人だなと思いました。
ゲームやささやきCDでもそのような口説き文句をたくさん言う人ですね。

今日の日記には「しにたい」と思ってばかりいた時の自分を振り返ってみた時に考えた、生まれ変わりの話について思ったことを書きました。
めちゃくちゃ長くなったけど書いたらスッキリした!


※「しにたい」と平仮名表記なのは、本当に心病んで悩んでいる人の死にたい気持ちと、昔の私のしにたい気持ちを区別するためです。
昔の私の「しにたい」気持ちは本当は死にたいわけではなかったと思ったので、平仮名表記にして区別しました。
以下の文章には「しにたい」と思っていた時の私に批判的な表現が含まれますが、これは昔の私以外の誰かを批判するために書いたものではありません。


以下長文


先日スマホのメモを整理していたところ、過去に書いた厨二ポエムが出てきました。

この世を生きるのが辛いから
死んだ後にもっと辛い世界があると思って地獄に落ちないよう頑張ったり、善い行いをして死後は今より良い世界に行けるように頑張ったりするんだろう
今より良いとか今より悪いとか比べることで今を生きてるのが辛いことから目を背けている

己の不幸に陶酔する為にはこの世は地獄でなくてはならない

文章の区切り方が変なのは、最後の文章を結論にしようとしていたのに途中の文と繋げられなくて頓挫したからだったと思います。

ポエムってて何が言いたいのかわからないですが、
不幸だと嘆いている時の自分は現実を見ているつもりでいて、不幸な自分に浸るという現実逃避をしていただけだった。
っていう話をしたかった記憶があります。
昔の私はしにたいとよく思っていたけれど、その考え方はただの現実逃避だったと反省していたのかな。


私が小学生の頃、クラスメイトの多くがシネとかコロスとかシニタイなどの言葉を使っていました。
それらは言ってはいけない言葉と知りながら、当たり前に使っていました。
その調子で良くない方向に成長していったから、私は簡単に「しにたい」と言える人になってしまっていたのかなと思います。

でも私の言っていた「しにたい」は、本来の意味とは違うものでした。
「こういう生き方やめたいけどやめ方がわからない。」とか、
「こんな自分を変えたいのに変え方がわからない。」とか、
「自分ではどうにもできないけど私の人生を変えたい。」とか、
っていう気持ちのことを「しにたい」と言っていただけだったと思います。
自分の気持ちを勘違いして死ななくて良かったなあと思います。
本当に。

私が間違えずに済んだのは、しにたいような気がした時に恐れおののき、死んではいけない理由を見つけて回避したからでした。
本当は死にたくなかったうえに、ものすごいチキンだったのです。


死にたい訳じゃなかったのに、私はどうしてそんな言葉を言ってしまったのでしょうか。
それは、死ねば現状から逃げられると考えてしまったからだと思います。
私は自分の人生を不満に思うたび、今の生き方を変えたいと思いました。
その一方で現在のやり方を辞めたくても、どうせ変えられないと諦めてもいました。
自分は死んだほうがいいのかなとか自分が死んだほうが良かったなと本気で思うこともあったけど、
ほとんどの場合は自分の力では頑張れないと思うが故の諦めからくる「しにたい」でした。

しかし私の場合は本心では死にたくはなかった訳ですから、自分のやるべきことを放棄しようとしていただけだったと今は思います。
生き方を変えるため頑張るより何も変えないままでいた方が楽なことを知っているから、そういう思考になっただけだと思いました。

故にこれはただの現実逃避で、思いつめた人が自殺を考えてしまうのとは違う気持ちだったと思います。
私の場合は、本当は死にたくないのにしにたがる『おかしな自殺願望』でした。
そんな私が「死にたい」という言葉を選んで使っていたのは、本当に軽率だったと思います。
私はただの卑怯者でした。


そんなふうに、実は死にたくなかった私がしにくなった時に考えたことは何かと言いますと「死んだらその後どうなるか?」でした。
私が考えた死後のパターンは3つです。

  1. 天国に行ったり地獄に落ちたりする
  2. 目の前が真っ暗のままずっと変わらない
  3. 新しい命に生まれ変わる

1は、私は徳を積めていないから地獄に落ちそうな気がします。
2は目の前が真っ暗になった後の状態がずっと続いてしまうような気がします。
どちらも考えているうちに怖くなりました。
怖くなったおかげで死なずに済んだと思うので、それは良かったと思います。

3はフィクションの題材で見たことがありましたが、しにたかった時は絵空事としか思えず深く考えませんでした。
ここで改めて考えるにあたり、開き直ってフィクションの題材として考えることにします。

フィクションの題材になる生まれ変わり方のパターンを自分なりに考えてみました。

  1. 新しい自意識を持った新しい肉体になって同じ世界に生まれ変わる
  2. 今の自意識のまま新しい肉体になって同じ世界に生まれ変わる
  3. 今の自意識と自分の肉体そのままで同じ世界に生まれ変わる
  4. 今の自意識と自分の肉体そのままで違う世界に生まれ変わる
  5. 今の自意識のまま新しい肉体になって違う世界に生まれ変わる
  6. 新しい自意識を持った新しい肉体になって違う世界に生まれ変わる


他にもあるかもしれないけど、とりあえず6つ思いつきました。


1は輪廻転生みたいな生まれ変わり方はこんな感じかなと思うものを書きました。
転生ものと呼ばれる作品を考える時、私はこの生まれ変わり方を想像しやすいです。

2は1と同じ作中に同時に出せそうな生まれ変わり方だと思いました。
違う生まれ変わり方をした人々が関わることで前世の因縁や罪が発覚すれば、人間関係がこんがらがりそうです。

3も転生もののお話にありそうな感じですが、転生と言うよりはタイムトラベルものに近い気がします。

4,5は異世界転生と呼ばれるものをイメージして書き出しました。

6は他のパターンと違う選択肢として考えられるものを書いてみただけなので、よくわかりません。


わからないのは仕方がないから置いといて、1〜5のパターンについて考えます。

1、2、3と4、5の大きな違いは、生まれ変わった時に今までの自分とどう向き合うか?という点かなと思いました。

1と2は過去の自分の人生に囚われて苦しむことになれば、自分とは何か?を考えることは避けられません。
3も同じく過去の自分に囚われているので、過去の過ちに気付くには自分について考え直す必要があります。
このように、前者はどちらもアイデンティティの確立が主題に関わってくる気がします。

対して後者は、このように考えられます。
4は今までの環境が良くなかったと考えられるため自分は変わらないし、変わる必要がありません。
5は変わろうとしなくても自分とは違う人になれるので、自分について考える必要がないと思います。
どちらも過去の自分を捨てられると考えると、アイデンティティの確立とは反対の方向に向かうお話のような気がしました。


ここまで書いて、上にあげた生まれ変わり方の中には、私の抱いた『おかしな自殺願望』を叶えられるものがあることに気がつきました。
ずばり4と5です。

どちらも自分の人生について悩まなくていい生まれ変わり方をするので、自分を変えて生まれ変わるための努力を要せず、生まれ変わり後の成功体験だけを疑似体験できるのです。

こうやって書くと異世界転生に対して批判的なように読めてしまいますが、私は異世界転生は娯楽としてとても良いものだと思っています。
自分の人生を変える方法が見つからなくて心病んでしまいそうな時に、異世界転生でサクセスストーリーを読むことで気が晴れるなら、それはとても良いことだと思うからです。
私もしにたかった時に異世界転生を読んでいたら、もしかしたら救われたのかも知れません。
読まなかったなりに立ち直りましたが、これも運命でしょうね。


ということで前置きが大変長くなりましたが、
ここで運命(DESTINY)というワードが出てきたので、冒頭の愛島セシルの話に戻ることにします。

セシルの言う生まれ変わりは6つのうちどれにあたるでしょうか?
おそらくは、1か2かなと思います。
輪廻転生を想定した生まれ変わりの話だと考えられます。

しかしセシルは、違う曲では生まれ変わって終わりではなく「再び巡り会えばまた自分と恋をするだろう」ということも歌っています。
このことから、「自分が自分であるという意識を失わない」という前提があっての転生の話だと推測できます。

この部分だけ考えると預言者のように見えたり、ものすごく自信家のようにも見えたりしますが、実際は少し違うと思います。
その根拠は、DESTINY SONGで「千年越えた時にまた出会うことは知っている」と歌った直後の歌詞です。

それくらいこの感情を 忘れないと誓う

国語辞典によると、「誓う」とは「心に決めたある事を成し遂げようと約束する事」です。
ということは、確信は持てないが必ずそうしてみせたいという意味で「自分が自分であるという意識を失わない」前提の生まれ変わりの話をしている、と考えられます。

セシルは少しワガママで頑固なところがあるキャラクターですが、それは見方を変えると意志が強いとも言えます。
そういう性格をうまく活かせば、どんな困難なことも成し遂げることができる気がします。
だから、こんな嘘みたいな誓いでさえ、本当に生まれ変わりを体験した時にはその通りに叶えてしまうんだろうなと思えました。

そんなセシルは、ゲームのストーリーにおいても困難に諦めずに立ち向かっていくところがありました。
自分が絶対に諦めてはいけないと思った物は、本当に最後まで諦めない強さがある人でした。

最初のゲーム版うたプリは早乙女学園時代のお話で、攻略対象が7人いる恋愛ゲームでした。
どのルートも「夢を諦めない人」のストーリーだとは思うのですが、セシルルートは少し毛色が違いました。
セシルルートで起きたトラブルは、セシルが逃げたらこの世の音楽から消えてしまう事件だったからです。
使命だから逃げられなかったと言えばそうなのですが、怖気付いて逃げることすら許されないというのはとても恐ろしいことです。
そんなにも恐ろしい試練に立ち向かい勝利を勝ち取ったと考えると、セシルはとてもかっこいい人だと思います。
(私はこういう感想を抱きましたが、実際のゲームの雰囲気はとても明るいラブコメディです。)

セシルのこういうかっこよさは、前述した「自分が自分であるという意識を失わない」というところに関係があると思います。
自分が自分である意識を持っているということは、アイデンティティが確立しているということになると思います。
そして、それを失わないということは、自分が自分であるということから逃げないということにもなります。

アグナパレスの王子であるセシルの場合は王族としての責任感もあるので、そもそもの意識が私とは違うと思います。
本人も、王になるよう育てられたと言っていたからできて当然なのかもしれません。
でも私にはセシルがすごい人に見えるのです。


うたプリのゲームを遊んでいて思ったのは、セシルはいつも自分が自分である事に揺るぎない自信を持っているということでした。
アグナパレスの王子は音楽の神様に仕える使命があるのですが、神様の与える試練によっては困難に陥ることもあります。
しかしセシルはそういう場面においても、神様の決めた運命に抗ってでも未来を自分で選ぶと決意し、神様を説得しようとしました。
自分の人生を他人任せにせず、自分で決めようとしたのです。

本来なら、セシルの国では神様が何よりも一番大切なものです。
特に王家の人間は、神様の化身の血を受け継ぎ、神様と神様の愛する音楽を大切にすることで国を守ってきた一族だそうです。
故に、王子であるセシルの中での神様の存在はとても大きなものだと思います。
私は無神論者ではありませんが、心から信仰している神様がいるわけでもありません。
なので想像することしかできませんが、そんな人が神様に逆らうような真似をするのはとても怖いことだろうと思います。
だけどセシルは、勇気を持って神様に向き合い、神様を説得することで望む未来を掴もうとしました。
そんな姿は神様から見れば相当な頑固者だったかもしれません。
でも、私にはとてもかっこよく見えました。

このように、ゲームのストーリー上でもセシルは自分の気持ちに自信を持っていて、自分で決断できる人として描かれています。
そんな人は今の自分を捨てて生まれ変わることは考えなさそうです。
今の自分の人生を諦めないで未来を変えようと努力するでしょう。


愛島セシルは残念ながら実在しないキャラクターなので、当然彼の物語もフィクションです。
それでも、自分の人生と比較して現実的に考えてみれば、望んだ未来を手に入れたいならセシルのように他人任せにしないで頑張るしかないことが分かります。
そもそも生まれ変われる保証はないのだから、現状が気に入らないのなら今の人生を良くするしかありません。

けれど逃避ばかりしてきた私がいきなりそんなに頑張れるでしょうか。
自信が持てないあまり、試しに私も異世界転生を妄想しようとしてみたこともありますが、全然上手く想像できませんでした。
私がうたプリワールドに行けたとしても、そこにいるセシルさんが私の思い描くセシル像と同じかどうか分からなかったからです。
ここまで長々と書いたセシルについての話も、他人から見れば「セシルってそんなキャラだったっけ?」と思うような話だったかもしれないですね。

実際に、私は記憶力が悪いので設定を事細かに覚えられるタイプのファンではないので、キャラクターの認識が正しくないような不安が常にあります。
持っていないグッズもたくさんあるので、私がセシルについて知っている情報はほんの一部に過ぎません。
それに、アグナパレスが地球のどこにあるのかも知らないし、言語は文法どころか単語すらよく分かりません。
伝統料理だって食べたことがないので、美味しいかどうか知りません。
そもそもアグナパレスは私の住んでいる地球の地図には載っていない国だから、どうやっても知ることができません。
そんなふうに考えると私はセシルのことを本当に全然何も知らないということに気が付いてしまいます。
悲しいけど現状ではこれが事実です。

加えて、セシルについてあれこれ考えるたび理想を押し付けてしまっている自覚があります。
「私が好きなセシルさん」というキャラクターは「愛島セシル」とは違うものになってきていると感じています。

ツイッターにはシャイニング事務所のオフィシャルアカウントがありますが、そこでセシルが書いたポエムがつまらないと思うのもそのせいかなと思いました。
今となっては、私の頭の中のセシルさんは私のセシルでしかないような感じです。
でも私の物だと思えば気分が良い気もするし、いいのかな。


話が逸れました。

今の人生を良くしたいという話でしたが、良くしたいと思うということは今の人生に不満があるということになります。
逆に、今の人生に満足するということは「今の自分に生まれて良かった!と思う」ということかなと思います。
だんだん頭がこんがらがってきましたが、そのように思います。

何故そのように考えたかというと、私が今の自分が好きではないからです。
だから今の自分の生き方にも満足できていません。

こういうところを考えてみても、セシルは私とは違う考え方の持ち主です。
どうしてそう思うかと言うと、セシルはきっと今の自分に生まれて良かったと思いながら「DESTINY SONG」を歌ったはずだと思うからです。
「DESTINY SONG」の最後には

百年過ぎ去ったら続きは恋じゃ物足りないね

という歌詞が出てきています。
ここで「百年後の続き」とも取れる表現があるので、この歌詞で言いたいことが人生をリセットしたいという意味での生まれ変わりの話とは全く違うことが分かります。

セシルの言う生まれ変わりとは、今の人生を諦めることではなく、今の人生の続きを生きることなのです。
今の自分の人生が大切だからこそ、生まれ変わる時は今の自分と変わらぬ思いを抱いて生まれ変わりたいと願うのでしょう。


私も今の自分の人生を好きになれたら、セシルみたいに自信が持てるようになるでしょうか。

インターネットで他のオタク趣味の人を見ていると、特定の何かを一生愛すると宣言している人を見つけることがあります。
私はそういう人を見ると、自分の気持ちに自信があるんだなと思って羨ましくなります。
私は一生と言える自信もなければ、一生の後に生まれ変われる自信もないし、生まれ変わってもうたプリや愛島セシルのことを好きになる自信すら持てません。
ですが、それならば尚更、今の人生を頑張っていくしかないなとも思います。

書いていて気が付きましたが、私が今の人生を諦めるということはセシルを好きでいる人生を諦めるということに等しいとも言えそうです。
そう考えると絶対に諦めたくないと思えてきました。

それに、私がセシルのやり方を真似することで人生を良い方向に変えられたら「私がセシルさんを好きになったのは運命だった!」なんて言えちゃうかもしれません。
それ言ってみたいかも〜。
なんだかやる気が出てきました!


今回の記事では、死にたくなんかないのに「しにたい」と言っていたことを日記に書いて振り返ってみました。
ただ逃げたかっただけのくせにそんなに重い言葉を使ってしまっていたと思うと、自分で自分が恥ずかしいです。

私はもう簡単に「しにたい」なんて言いません。
自分の人生から逃げずに生きます。